「ただの風邪になった」と伝わらない謎

 2022年8月3日の毎日新聞朝刊によると、日本感染症学会など4学会は、2日、症状が軽く、重症化リスクが低ければ、「薬や検査のために慌てて受診することはない」と呼びかけたという。他方、経済再生担当相は、お盆で帰省する人の新型コロナウイルス対策として、今月5日~18日に主要駅や空港など117カ所に臨時検査場を設置すると発表した。これは矛盾していないか。
 新型コロナの第7波で、医療現場は「既に崩壊」とも伝えられている。無症状の帰省客に検査を勧めたら、現場の崩壊はさらに拡大するおそれがある。
 コロナ対策を徹底するのか、緩めるのかについて、根本的な視点が欠けている。
 最も重要なのは、BA.5の毒性だ。感染した場合にどのくらいの確率で重症化し、生命の危険に至るのか。オミクロン株では0.03%と報道されてきたし、2日の4学会の会見でも、重症化する人は数千人に1人程度と説明され(3日の日経新聞朝刊)、一致している。これを前提とすると、新型コロナは、「ただの風邪」になったと言ってよい。このフレーズは、感染症の専門医に聞いた言葉でもあるが、医学的根拠がある。第1波の頃は、重症化率が海外の統計でインフルエンザの4倍とされ、警戒された。のどや鼻の症状がないまま肺炎が進展し急死する例もみられた。オミクロン株が流行した日本の第6波の始まり頃には、海外の統計で、オミクロン株の重症化率がインフルエンザの1.4倍までさがり、イギリスでは、途中で陽性者の行動制限さえ解き、「ただのインフルエンザ」扱いが始まった。これも一つの立派な見識である。
 日本で第6波が落ち着いてきた頃、重症化率が0.03%となった。これは、厚生労働省の統計でも、インフルエンザと変わらない水準である。また、第1波当時は、「新型肺炎ウイルス」といわれ、突如肺炎を起こし急死することが恐れられていたが、BA.5よりまえのオミクロン株は、肺でウイルスが増殖しにくくなる変異が起きているため、肺炎を起こしにくくなっていた。「単なる風邪」、厚生労働省の統計データをもっても「ただのインフルエンザ」なら、心配して行列を作りPCR検査を受ける必要はない。インフルエンザの場合、無症状でわざわざ検査を受ける人はいないし、そもそもそのような検査に医療資源、税金を投下する必要性には大いに疑問がある。さらには、無症状だったのに陽性と分かって慌てて医療機関をわずらわせても、誰も得をしない。
 欧米では、厳格なマスク着用を求めなくなって久しい。今年5月末に行ったオランダでは、すでに地下鉄でもバスでもマスク不要だったが、医療崩壊は起こっていなかった。
 いつまでも、毒性の低下を知らされていない国民は、もはや日本人だけになっていないか。2年前の「恐ろしい新型コロナ」という認識のまま、マスクからの出口戦略も、入国制限からの出口戦略も示せない日本は、海外から尊敬される国でいられるだろうか。スペインから帰国するために、今年6月に日本への乗り継ぎ便に搭乗する際に、1万円払って受けたPCR検査の結果を提出したが、他の国ではほとんど例のない厳格な国の要求に対し、「お気の毒に」という係員の神妙な表情は忘れられない。
  少なくとも、今の変異株の毒性の程度を伝え、「過剰な不安感」から市民を解放してほしい。専門家・メディアの役割が今ほど重要なときはない。新規感染者の数の報道ばかりでなく、それに負けないくらい、「ただの風邪」になったことを他の国と同じように伝えてほしい。
 もちろん政府も、EBPM(科学的根拠に基づく政策形成)を実践し、不要不急の検査場設置などやめることだ。今ほど、専門家に従った政策転換が求められるときはない。
 変わるべき時に変われない、頑迷な、あるいは信念もなくただずるずると前例を踏襲するだけの保守主義は、日本人を幸せにしないだろう。

 こういうことを書くと、反射的にデマととる人がたくさん出てくるデジタル社会ではある。想定される反論1は、「オミクロンを放置したらたくさんの人が死ぬのではないか」。しかし、今2類なので、陽性がわかると病院では隔離の対象となり、施設によっては、その分救急患者のためのベッドが減る場合もあり得る。コロナ重症者が全国で464名(6月2日現在)なのに救急搬送が困難となっているのは、コロナ以外での入院患者の陽性判明による隔離措置が災いとなっていることが予想される。陽性でも今ほどの特別扱いをしないようにする方が、救急患者の受け入れ拡大による救命につながるだろう。
 反論2は、「オミクロンは絶対安全とでも言うのか」。0.03%なので、基礎疾患がある方、高齢者等は死亡することもある。それは誰も否定していないし私も否定しない。逆に、あまりにいつものことで報道されないものの、普通の年でも、高齢者等は、ただのインフルエンザでかなりたくさんの方が亡くなっている。高齢者における死亡原因の上位に肺炎があり(65歳以上なら4位、80歳以上ならなんと3位である)、これにはインフルエンザをこじらせたもの(合併症としての肺炎)も多い。それと比較すると安全だから、特別扱いをするのはバランスを失するという意味である。
 反論3は、「マスクは無意味とでも言うのか」。そんなことはない。ただ、飛沫感染ではなく空気感染(エアロゾル感染)が主体なので、野外ではほとんどの場合意味がなく、閉鎖空間かつ20分以上継続して2メートル以内にずっと誰かがいる、かつ換気不十分という状況下ではした方がよい(が、ただの風邪だからそれも不要とする海外の対策は合理的である)。私は、不特定多数がいる屋内・公共交通機関ではマスクをし、手洗いも飛沫感染対策にすぎないが行っている。同調圧力に負け、人混みのある市街地では、野外でもつけることはある(残念だが)。何もかも無駄だと言うつもりはない。
  反論4は、「あなたは医者じゃないではないか」。それはもちろんそうだ。ただ、公衆衛生政策では、過去に、感染のおそれを過剰に見積もり、適切な限度を超えた過剰な人権制限(人権侵害)が繰り返されてきた。ハンセン病国賠訴訟では、感染のおそれが低いのに人生を奪われた壮絶な人権侵害が暴かれた。判決は、感染予防に必要な最小限度の人権制限しか許されないことを前提として、国の責任を認めた。「2年前のウイルスが強毒性だったから」という理由で、いつまでも2類指定を解くことなく、ただの風邪に人手や貴重な税金などの資源を過剰に投下する国の政策は誤っている。そう訴えるのも、医療の専門家ではないものの、人権擁護を法律でもとめられている法律の専門家の責務ではないだろうか。
  反論5は、「もうコロナ対策は不要と言いたいのか」。リスクがゼロではないが、対策は緩和すべきであり、早く日常に近づけた方がよい。ただ、新たな変異株の毒性を、慎重に監視し続ける必要はある。将来強毒化するおそれはゼロではない。あくまで、今流行している変異株の毒性にあわせた、機動的な政策対応が求められている。その意味では「法改正しないと類の指定が変えられない」などと言った建付けであってはならないのは当然だ。数ヶ月おきにも生じうる変異株への対応を全部国会で決めるのでは遅い。毒性の程度を常に国民に公開して十分説明を行うこと。EBPMの実践と、市民への説明責任を果たすこと、いま政府に求められていることはそれをおいて他にない。