ハンセン病で本来必要だった政策転換と新型コロナ対策

 新型コロナウイルス感染症法における位置づけについて、「2類か5類かはたいした問題ではない」という主張をときどきみかける。その多くは、医療専門家の意見を伝達する形である。
 本当にそうか。過去の公衆衛生政策の過ちをきちんとふりかえったものだろうか。
 1998年7月に提訴されたハンセン病国賠訴訟の答弁書p27で、国はこう言った。
「新法(戦後改正された「らい予防法」を指す。引用者注)の廃止については、前述の軽快退所制度の運用等その時々での医学的知見に照らした法の弾力的運用及び処遇改善策の実施により、事実上防止されていたこと」などにかんがみ、平成8年に行われたものである。
  まるで、感染力の乏しいハンセン病患者に対する隔離政策を定めるらい予防法を平成8年まで廃止しなかったことは合理的であり、厚生労働省(当時は厚生省)は、ちゃんと考えがあってそうしたのだ、という主張である。
  ご丁寧に、末尾には「ハンセン病療養所入所者の軽快退所状況」という表が付され、あたかも強制隔離政策は緩和され、自由に退所できたかのように見えるが、どの年を見ても軽快退所者数は入所者数のうちの最大2%未満でしかない。
 国の準備書面(1)p17には、こう書かれている。
「新法には、退所基準がないが、新法6条が『らいを伝染させるおそれのある患者』を対象としていることにかんがみ、これに該当しなくなったものは当然退所できるものと考えられており、(中略)新法が軽快退所あるいは入所の必要のなくなったものの退所を当然の前提としていたことは明らかである」
 あたかも、感染防止の必要性を超える人権制限をすることは最初からなかったし、最後までなかったのであり、生涯隔離をされたのは、入所者が自分で望んだからだ、といわんばかりである。
  国の準備書面(3)p18にはこう書かれている。
「遅くとも昭和47年には、厚生省は実質的に隔離政策を開放政策に転換し、隔離の根拠となっていた条文が現実に適用されることはなく、ただ、形式的に右の条文が残存していたことが明らかである。」
  これに対して、2001年5月11日付熊本地裁判決p447以下は、概要以下のように認定して国の主張を排斥した。
1 国は、少なくとも平成5年に至るまで、把握している患者(治癒している「回復者」がほぼ全部である)の90%程度を一貫して隔離し続けている。
2 国が療養所以外でハンセン病の治療が受けられる体制を敷かなかったため、再発で入院治療を受けようと思ったら療養所に戻らざるをえなかった。
3 自ら行ってきた強制隔離政策で多くの国民は強烈な伝染病であるとの過度の恐怖感を持つようになり、社会的な差別・偏見が増強されたが、特効薬により治し得る病気となった後もその差別・偏見が解消されなかった。
 その上で、厚生省は、昭和35年の時点で、「新法の改廃に向けた諸手続を進めることを含む隔離政策の抜本的な変換をする必要があった」とした(判決p462)。
 具体的には以下の通りである。
1 全ての入所者に対し、自由に退所できることを明らかにする相当な措置
2 療養所外での診療が受けがたい状況である理由は、「抗ハンセン病薬が保険診療で正規に使用できる医薬品に含まれていなかったことなどの制度的欠陥によるところが大きかったのであるから、厚生省としては、このような療養所外でのハンセン病医療を妨げる制度的欠陥を取り除くための相当な措置を執るべきえあった。」
3 「従前のハンセン病政策が、新法の存在ともあいまって、ハンセン病患者及びもと患者に対する差別・偏見の作出・助長に大きな役割を果たした」「その差別・偏見は、伝染のおそれのある患者を隔離するという政策を標榜し続ける以上、根本的には解消されないものであることにかんがみれば、厚生省としては、入所者を自由に退所させても公衆衛生上問題とならないことを社会一般に認識可能な形で明らかにするなど、社会内の差別・偏見を除去するための相当な措置を採るべきであった」
 2022年8月21日付毎日新聞には、「今は、症状が苦しいなど真の病気の怖さからではなく、とりあえず不安なので検査を受けたり救急車を呼んだりする人もいて、医療が混乱しています。」という医療専門家の話が出されている。
  感染症法で、「感染力や罹患した場合の重篤性などに基づく総合的な観点からみた危険性が高い感染症」という定義に該当する2類に指定したまま、弱毒化しても変更しないから、しかも、強毒性だった頃のコロナウイルス株の時と同じように感染者の全数把握をして、新聞・テレビ等のメディアで、当時とは桁が2つほど異なって激増した新規感染者数を連日報道されれば、相当割合の市民が不安に思うのは当然だろう。
 世論調査で、「コロナ対策を厳しくしてほしい」という回答の方が上回るのは、過去の政策に基づく恐怖心が解除されないまま、弱毒化に対応する政策転換の欠如という欠陥に基づくものであり、なぜ厳しいコロナ対策が必要ではないかという、EBPM(科学的根拠に基づく政策形成)とその説明が不可欠である。
 欧米で感染者の全数把握をしていないのは、弱毒化したからだ(中国では、接種済みのワクチンの効果が異なることから、弱毒化していても本当にまん延すると医療崩壊が起こるおそれがあるためゼロコロナ政策をやめられないとの指摘はあるが)。
 識者の中には、「強い規制ができる2類のままの方が、後で強毒性になったときに対応しやすい」という意見もあった。
 しかし、この意見は、強毒性を前提として2類に指定され、恐ろしい感染症であるとの法律による位置づけをあらためないことにより、市民の不安感は解消されないのではないか。濃厚接触者である医療者の排除による医療逼迫や、市民の不安感からの救急医療の逼迫をまねく現状を抜本的に改善できないだろう。
 「厳格な法律を、運用で柔軟にする」というのは聞こえはいいが、現在必要性の乏しい、市民への自由の制限に対する裁量を多めに確保しておくという、ハンセン病国賠訴訟の準備書面と同じような人権軽視の「悪い校則」の正当化のような雰囲気を感じる。
 欧米と比較すると、日本では感染者数、死亡者数とも桁が異なって推移している。少ない日本の方が、いつまでもコロナウイルスを強毒性という位置づけのままにすることに何の意味があるのだろうか。
 政府も、メディアも、いったいなんのために毎日毎日新規感染者数を克明に発表し続けているのか、結果として相当割合の市民の不安をあおる体制を維持し続けることに正義があるのか、そろそろ考え直すべきではないだろうか。