デジタル社会において人間の自律性と民主主義を守るため、自己情報コントロール権を確保したデジタル社会の制度設計を求める決議

2022年9月30日に旭川市民文化会館で開催された第64回日本弁護士連合会人権擁護大会で、第2分科会による表記決議案が全員一致で承認されました。

https://www.nichibenren.or.jp/document/civil_liberties/year/2022/2022_2.html

当連合会は、2010年の第53回人権擁護大会において、「デジタル社会における便利さとプライバシー~税・社会保障共通番号制、ライフログ電子マネー~」と題するシンポジウムを開催した。私たちの行動の足跡がデジタル社会に残ってしまうライフログの実情に迫り、これを利用した行動ターゲティング広告の問題点を指摘し、また当時政府が創設を目指していた共通番号制度の問題点を明らかにしながら、デジタル社会における自己情報コントロール権の実効的な保障を提言した。

 

それから12年が経過し、スマートフォンが普及して、ツイッターTwitter)、フェイスブックFacebook)、インスタグラム(Instagram)などSNSを利用したり、ユーチューブ(YouTube)等のデジタル動画を視聴したりする頻度が高まるなど、市民の行動は変容を遂げている。行動ターゲティング広告の有効性が周知のものとなり、企業からすると、少ない宣伝コストで従前と同様の売上げが得られるようになっている。

 

他方で、デジタルプラットフォーマーは、利用者が入力した検索キーワード、閲覧した記事やユーチューブチャンネルの履歴、スマートフォンのGPS機能をオンにしていることにより蓄積されていく移動履歴など、当の本人では到底覚えておくことの不可能な膨大な情報を記録し、個人の将来の行動を予測するために活用し、収益を上げている。デジタル社会での行動履歴は丸裸と言っても過言ではないほどのプロファイリングに供され、プライバシーの危機を招いている。

 

私たち自身が、自律的な判断をするために必要な情報アクセスが確保されないといった問題もある。自分と似た興味・関心・意見を持つ利用者が集まるコミュニティが自然と形成され、自分と似た意見ばかりに触れてしまうようになる「エコーチェンバー」現象、自分好みの情報以外の情報が自動的にはじかれてしまう「フィルターバブル」などにより、偏った意見や真実ではない意見に囲まれてしまい、自然な意思形成ができないこともある。2016年のアメリカ大統領選挙で、プロファイリングに基づき分類したグループごとにきめ細やかな投票行動の誘導を行って、市民の投票行動に意図的に影響を与えた疑いのあるケンブリッジ・アナリティカ事件も明るみに出ている。一人一人の市民が自己決定するのに十分な情報へのアクセスを確保し、民主主義社会に参加できる制度が必要である。

 

このような中、2021年9月にデジタル庁が発足し、日本の「デジタル社会化」の司令塔として強力な権限を発揮しようとしている。その政策は、データの徹底的な利活用を図ることを目指し、個人番号カードの全国民への普及、個人番号(マイナンバー)の利活用促進を中心とした計画となっている。個人番号は、当初の税・社会保障の目的とは関連性の乏しい国家行政事務に利用範囲が広がり、個人番号カードを通じた民間事業者におけるデータベースの作成には制限がない。デジタル改革関連6法により個人情報保護法制も改正され、地方自治体による住民のプライバシー保護機能の低下が懸念される。

 

さらに、日本では、警察による捜査を始めとした顔認証システムの活用が、法律によるルールの策定もなく無限定に広がっている。中国では、約6億台の顔認証機能付きの街頭監視カメラにより、住民全員の個人情報データベースの検索がなされ、信用スコア(個人にひも付く様々なデータを基にAIが個人の信用力を評価し、点数化したもの)と連動して人々の行動を監視しているが、このままでは日本も類似した社会となることが危惧される。十分なプライバシーへの配慮を行わないままに顔認証システムを実用化することには重大な問題がある。

 

情報主体である私たち主権者は、行政機関や民間事業者によってデータを収集・分析・利活用されるただの客体に成り下がり、一人一人の市民の自己決定や自己実現が妨げられ、市民社会全体が萎縮するおそれすらある。

 

デジタル社会の制度設計にはあらかじめプライバシー保護措置を組み込んでおくことが必要である。その制度設計に市民自身が参加し、その意見を反映させることができなければ、事後的にプライバシー保護を図ることは困難である。

 

当連合会は、上記の第53回人権擁護大会において、「arrow_blue_1.gif『高度情報通信ネットワーク社会』におけるプライバシー権保障システムの実現を求める決議」を採択したところであるが、その後、デジタルプラットフォーマーの活動が著しく広がったこと、政府の主導により、官民を横断するデータの利活用が強く推進されていることを踏まえ、以下のとおり、国に対しデジタル社会において人間の自律性と民主主義を守り、プライバシー権・自己情報コントロール権を確保するための法制度や原則の確立を求める。

 

1 デジタルプラットフォーマー(プロバイダ、通信事業者を含む)に対する自己情報コントロール権を確立し、民主主義の基盤を崩さないようにするため、以下の内容を含む法律を制定すべきである。

 (1)クッキー(Cookie)を始めとした、市民のデジタル社会における行動履歴を同定し得る情報については、事前同意を要件として取得するものとし、同意が得られない場合にもサービスから排除しないこと。

 

 (2)収集している個人情報のみならず、個人識別可能性のある情報についても、その種類、利用範囲を明示し、利用結果、第三者提供の結果についての公開を図ること。

 

 (3)利用者に対して、プロファイリングされない権利、削除権、データポータビリティ権等、GDPR(一般データ保護規則)で規定される諸権利を保障すること。

 

 (4)収集した情報に対して適用されるAIのアルゴリズムディープラーニング後のものも含む)及びその適用後のデータ処理について、少なくともその基本構造を公開し、説明すること。

 

 (5)フェイクニュースに対する自主規制ルールの設定と実践を行うとともに、その結果を公開すること。

 

 (6)信頼性の高い情報、多様な意見との接点の確保が図られるためのアルゴリズムの設定、実践を行うとともに、その結果を公開すること。

 

2 デジタル社会における市民のプライバシー権・自己情報コントロール権の保障を実質化するため、以下の点を現行法の改正又は新たな法律の制定によって具体化すべきである。

 (1)個人情報の保護に関する法律個人情報保護法)について、以下の諸点を改正し、プライバシー保護をGDPRと同水準に引き上げるべきである。

  ① 収集の必要性・相当性のない個人情報を処理しないこと。

  ② 他の情報と組み合わせれば個人識別が可能となり得るような個人識別可能性のある情報についても、保護の対象とすること。

  ③ プロファイリングされない権利、削除権、データポータビリティ権等を保障すること。

  ④ 個人情報保護委員会について、プライバシー保護に専念する機関とするようその存在目的を設定し直し、調査権限等を充実させて、プライバシー保護機能を強化すること。

 

 (2)公権力が、自ら又は民間事業者を利用して、市民のデジタルデータを網羅的に収集・検索する方法で監視する行為を禁止すること。

 

 (3)個人番号や個人番号カードが、行政機関や民間事業者による情報監視の基盤とならないよう、個人番号制度は抜本的な見直しを行うか、個人番号及びマイキーID等といった個人識別符号の利用範囲の大幅な限定等を行うこと。

 

 (4)既存の政府の情報収集機関のほか、デジタル庁や警察庁サイバー局の設置等により、公権力による個人情報の収集管理が強化されている状況において、情報機関の監視権限とその行使について、厳格な制限を定め、独立した第三者機関による監督を制度化すること。

 

 (5)顔認証システムについて、法律により、官民を問わずその利用を原則禁止とした上で、厳格な設置・運用条件を設定するとともに、その基礎データを供給し得る監視カメラについても厳格な設置・運用条件等に関する要件を明示し、さらに個人情報保護委員会の管理監督下に置くこと。

 

3 日本のデジタル社会の推進に当たっては、市民のプライバシー権・自己情報コントロール権の保障を実質化するとともに、デジタル政策を民主化するため、政府は、以下の諸点を遵守すべきである。

 (1)市民のプライバシーを最大限保障することを大前提として、同意原則を十分に尊重し、不同意者に不利益を与えないように制度を設計し、その範囲で利便性や効率化等を図ること。

 

 (2)プライバシー影響評価を事前に行った上でその結果を公表し、市民の意見を反映し、あらかじめプライバシー保護に配慮した制度設計を行うこと(プライバシー・バイ・デザイン)。

 

 (3)行政の効率化を最上位の目標とすることなく、必要なシステムの設計においても、最大限に地方自治を尊重したものとし、また地方自治体レベルでの設計も許容することとし、かつ意思決定に際しては地方自治体の意見を十分に聴取して、これを反映させること。

 

 (4)市民提案型の制度を採用するとともに、それが実現されるまでの間においても、制度設計について、行政機関、業界側だけでなく、消費者側、市民側の代表者を少なくとも半数程度は参加させ、その意見を反映させること。

 

 (5)オンライン上で生成される個人情報の蓄積・管理、運用に関して、市民自らが個人データの秘匿や共有をコントロールできる仕組みを確立すること。

 

当連合会は、デジタル社会において人間の自律性と民主主義を守る決意である。

 

以上のとおり決議する。

 

 

2022年(令和4年)9月30日
日本弁護士連合会

 

「デジタル社会の光と陰~便利さに隠されたプライバシー・民主主義の危機~」基調報告書

日弁連ホームページに、本年の人権擁護大会シンポジウムの基調報告書がアップロードされました。

https://www.nichibenren.or.jp/document/symposium/jinken_taikai.html

全体の監修を行いましたが、担当した部分の一部を引用します。

(以下、pⅰ~ⅴ)

本基調報告書のテーマと構成

第1 デジタルプラットフォーマーによる市民の包括的把握

2010年、盛岡市で開催された第53回人権擁護大会第2分科会シンポジウムは、「デジタル社会における便利さとプライバシー~税・社会保障共通番号制、ライフログ電子マネー~」というテーマだった。そこでは、私たちの行動の足跡がデジタル社会に残ってしまうライフログの実情に迫り、これを利用した行動ターゲティング広告が始まった時期にその問題点を指摘し、また当時政府が創設を目指していた共通番号制度(現在のマイナンバー制度)の問題点を明らかにしながら、デジタル社会における自己情報コントロール権の実効的な保障を提言した。

それから12年が経過した。この間、インターネットへのアクセスは、PCからよりスマートフォンからの方が多くなるなど、インターネット通信量の飛躍的な増大だけでなく、その手段も変化している。ツイッターフェイスブック、インスタグラムなどのSNSが飛躍的に普及したのも2010年代の際立った特徴である。

若い世代では、テレビ視聴よりユーチューブ等のインターネット利用の時間が上回ると報道されている。企業が支出する宣伝広告費も、新聞やテレビに対するものより、インターネットに対するものの方が上回るようになった。行動ターゲティング広告の有効性が周知のものとなり、営業活動を行う企業側からすると、3割ほど少ないコストで広報が図れるようになっている。

今や私たちは、デジタル社会の中に組み込まれた生活をしている。

もちろん、デジタル社会は私たちの生活に大きな利便性をもたらしている。しかし、他方で、デジタル社会の基盤を提供しているデジタルプラットフォーマーは私たちのプライバシー情報を大量かつ容易に収集・分析・利用するため、検索キーワード、閲覧した記事やユーチューブチャンネル、GPSをオンにしていることにより蓄積されていく移動履歴など、当の本人は到底覚えておくことの不可能なはるか以前から現在に至るまでの記録を保持し、そして近い将来の行動予測をしながら、収益を上げている。アメリカでは、フェイスブックにつけた「いいね!」の選択を分析するだけで、高い確率で人種、宗教、支持政党を推測できると指摘されるようになった。分析対象となる「いいね!」の数が増えると、同僚や友人、配偶者よりもその人の人格を正しく補足できるとされている。

私たちは、自分たちの思考過程まで推知可能なほどの膨大な情報の蓄積と利活用という、利便性の裏側にある問題点をきちんと意識して生活できているだろうか。

 

第2 多様で、信頼性の高い情報にアクセスすることの困難さ

 

また、AIに委ねた便利な生活の中で、私たち自身が意思決定を行うに際し、自律的な判断ができるために必要な情報アクセスを確保するのが困難になっている。

2016年11月の米国大統領選挙で、勝者側が利用した選挙コンサルティング会社であるケンブリッジ・アナリティカは、インターネット情報を基に個人の人格を分析し、特定の考え方を支持する情報に誘導したり、特定の考え方を支持するグループにのみ強く投票行動を促すなどの誘導により、選挙に影響を与えたのではないかとの疑問を突きつけられた。

一度風変わりな意見の動画を見ると、次々とたくさんの人が同様の主張する動画をお勧めされ、「多数の人に支持されているのだ」と、偏った情報に取り囲まれる「エコーチェンバー」現象、自分の好み以外の情報が自動的にはじかれ、アクセスできなくなる「フィルターバブル」現象などにより、一種の洗脳に近い状態に追い込まれることもある。感情を揺すぶり、アクセス回数を伸ばすことで収益を図ることを至上と設定したAIのアルゴリズム(計算式)に問題があるとの指摘がある。

コロナワクチンをめぐって、アメリカでは「マイクロチップが埋め込まれてしまう」、日本では「遺伝子が書き換えられてしまう」とのエビデンスに基づかないワクチン反対方向のフェイクニュースが席巻したことは記憶に新しい。米国では、2020年大統領選において「票が盗まれた」との考えを支持する市民が相当程度存在するため、2022年の中間選挙においても重要な争点となっている。

米国では、個人情報が民間事業者の中で自由に流通すること(data free flow)自体を表現の自由であると捉え憲法上の地位を高く評価してきた。しかし、主権者の意思形成をゆがめ、表現の自由を侵害するおそれがあるとの認識に至り、プライバシー権に基づく情報流通(アメリカ流「表現の自由」)の制限が必要であるとの価値観の転換が進んでいる。

我が国では、一人一人の主権者が、このような情報流通の問題に向き合い、自己決定できるための議論が尽くされているだろうか。

これらの問題点を探り、対策のための制度改革を考える必要がある。

第3 デジタル庁を中心とした日本のデジタル政策

デジタル改革関連法の成立により、2021年9月1日にデジタル庁が発足した。

官民を横断するデジタル社会の進展、データの利活用が図られようとしている。

しかしながら、民間事業者によるプライバシー情報の利活用が、主権者のコントロールがきかないほどのプラットフォーマーの権力の肥大化につながったという問題点を考えると、公権力主導で同様の仕組みを目指すという進め方自体も含め、検討されるべき問題点は多い。

デジタル社会の実現に向けた重点計画(2021年6月15日、高度情報通信ネットワーク社会推進戦略本部、官民データ活用推進戦略会議)によれば、デジタル社会の形成に向けた基本的な施策の冒頭に「マイナンバーカードの普及、マイナンバーの利活用促進」が掲げられ、これが中心的な手段と位置付けられている。

マイナンバーカードについて、健康保険証や運転免許証との一体化、及び既存の健康保険証の廃止という政策からは、医療機関を受診する可能性のある市民は、例外なくマイナンバーカードを保有する以外に選択の余地がなくなる恐れがある。

マイナンバー制度は、当初の税・社会保障制度のための手段という位置付けから、行政効率化の手段とされ、必ずしも税・社会保障と関連性のない国家行政事務にまで個人番の利用が政令への委任により開かれている。また、直接マイナンバーを媒介として情報を連携するわけではないとしても、マイナンバーカードを通じた民間事業者におけるデータベースの作成には制限がない。

これは、私たち主権者が自ら選択したデジタル社会の第一歩だろうか。

 また、その後に政府が想定している未来予想図は、私たち主権者が自ら望んでいる姿だろうか。

また、マイナンバーカードには、指紋の1000倍と言われる高度な本人確認機能を有する顔認証データの収集・利用が不可分一体とされている。健康保険証機能を活用する場合、医療機関に導入されたカードリーダーで、受診者の個人番号カードのICチップに埋め込まれた顔画像データから生成される顔認証データと、本人の顔画像とを、カードリーダー内蔵のカメラでチェックし、同一人であることを判断させる。

中国では、約6億台の顔認証機能付きの街頭監視カメラに基づき、住民全員の個人情報データベースとの検索がなされている。街角で行った交通違反で減点され、直ちに罰金が科されたり、政治犯が逮捕されたりしている。海外メディアの実証実験によれば、場所を明らかにせずに公共空間に現れたターゲットを、当局が特定し臨場するまでに要した時間はわずか7分であったという。

顔認証データが高度な本人確認機能を持つことから、GDPR9条1項は、顔認証データを典型とする生体情報の原則収集禁止を掲げ、民間事業者の収集・利用にも議会による法律制定が必要とされている。日弁連も、2012年、2016年に加え、2021年にも顔認証システムの利用に対する制限立法を求める提言を繰り返しているが、今なお存在しない。

公権力による市民のプライバシー侵害の高度化は、今もなお、最大の警戒対象であり、市民の自律性と民主主義社会の前提を破壊しないための対策が必要不可欠である。

 

第4 地方自治体における個人情報保護

2020年10月下旬、内閣府は全国の自治体に向けスーパーシティ構想への公募を開始した。

  デジタル化を進める国家戦略特区の実験には、そこでプライバシー権を制限される住民の意思や、住民代表者で構成される地方議会による慎重な検討が求められるところ、そのような制限を設けない実験も可能とされている。

  デジタル改革関連法には、個人情報保護法制の大改正も含まれており、国法である個人情報保護法より住民のプライバシーを保護するために先に成立し、センシティブ情報の収集制限など、住民のプライバシーを保護する規定も含まれていた条例が、そこでは国法以上のプライバシー保護を抑制され、保護水準が切り下げられる懸念がある。

  元々、住民基本台帳ネットワークシステムは、市区町村の基礎的地方自治体が保有している、正確で最新の住民の居住状況を国家行政事務が可能な限り自由に捕捉するための制度設計と、住民のプライバシー保護を図るために必要のない国家行政事務への提供を防止するための制度設計がせめぎ合ったシステムであった。

  利便性や行政の効率化を優先するデジタル社会においては、主権者のプライバシー保護は絶えず後方に退く危険がある。自衛隊適齢者情報の提供に関する基礎自治体の慎重姿勢が次々と変化している状況を考えると、デジタル改革関連法は、全体として住民のプライバシー保護機能を有する中間団体であった地方自治体のバリアを破壊して、国家による住民情報の直接の捕捉につながる懸念も否定できない。

  これは、地方自治の破壊にもつながりかねない重大な問題である。

 

第5 プライバシー権保障のための仕組みを

 

利便性・効率性の優先ではなく、あらかじめ必要なプライバシー保護措置を事前に組み込んだ制度設計によるデジタル社会の設計図がなければ、その後の世界は、プライバシー保護のない社会にならざるを得ない。仕組みが動き出す前に、設計図にプライバシー保護のための必要な施策を全て事前に組み込まなければならない。

このような考え方を「プライバシー・バイ・デザイン」(設計図に組み込んだプライバシー保護)」、「プライバシー・バイ・デフォルト」(初期設定で確保するプライバシー保護)と呼び、GDPR(EU一般データ保護規則)25条が定めている。

デジタル改革関連法案には、このようなプライバシー保護に向けた具体的な仕組みは存在するだろうか。

私たちが2010年の人権擁護大会決議で提言した、クッキー(市民のインターネット利用履歴を統合する目印)規制は、日本では法制度として採用されなかった。その後、クッキーは、サードパーティークッキーの開発により更に企業にとっての利便性を増したが、市民は、自分のインターネット利用履歴が誰にどのように利用されているのか、ほとんど理解しないまま、情報利活用の「客体」のまま放置されてきた。

2022年通常国会に提出された電気通信事業法改正案の検討過程において、総務省の事務局は、電気通信事業者に対し、クッキーに対する事前同意を求める案を検討していたが、事業者らの強い反対により葬り去られた。

プライバシー権の著しい侵害状況、欧米の厳格なプライバシー保護強化という政策転換に、経済活動を優先させがちだった省庁も重い腰を上げようとしている。

逆に言えば、総務省がわざわざ事業者の望まないプライバシー保護施策を検討せざるを得ないほど、日本の法制度は国際水準から見て遅れている。早く民主主義国家とその市民にふさわしい法制度が実現される必要がある。

 

第6 主権者の幸福に資するデジタル社会とは?

世界的に技術導入に重点が置かれがちで、住民自治の観点が切り捨てられがちなデジタル化の中で、バルセロナは2015年に「スマートシティのインフラを民主化する」というゴールを掲げ、市民が市政に参加するためのプラットフォーム「ディシディム」(カタルーニャ語で「私たちが決める」の意味)作りから始めた。市の予算の一部に市民が提案する政策に配分する「参加型予算」を設置し、市民の提案する政策に従い、市議会での議論を経て配分されるように変化した。その結果、市内のビルの屋上に農園を作る政策など約1500もの提案が市議会で採択されている。

 また、EUでは、デジタルプラットフォーマーへの対抗戦略として、2017年に欧州委員会がデコード(Decentralized Citizens Owned Data Ecosystem:脱中央集権・市民所有型データエコシステム)プロジェクトを始めた。これは、オンライン上で生成される個人情報の蓄積・管理、運用に関して、市民自らが個人データの秘匿や共有をコントロールできるようにする仕組みである。例えば、自分の移動データについて、公共交通機関には開示するが、保険会社や広告会社には非開示にするというように自分の意思によって選択できる。その際の大原則は、「個人データは企業や政府のものではなく、それを持つ人自身のものである」という「データ主権」の思想であるとされる。

  日本のデジタル化は、すべて政府が設計図を描き、市民はただその客体にすぎないかのような前提で着々と進んでいる。日本も民主主義国家であるのならば、EUバルセロナ市のように、主権者自身が自らの「情報主権」に目覚め、公権力や民間事業者に対しても、自らの移動履歴・行動履歴を誰には提供してもいいが、誰には提供したくない、という自己情報の提供に関する自己決定権を行使できる、自己情報コントロール権の実現を組み込んだデジタル社会を目指すべきではないだろうか。

その不可欠の前提として、まずその設計図の作成に主体的に参加できることを目指すべきではないだろうか。

 

第7 基調報告書の構成と目標

 

この基調報告書は、以上の第1ないし第6におおむね相当する各編において問題点を分析し、対策を検討するものである。

当初は、全体で200頁に届くか、という雰囲気すらあったが、各班の熱心な調査活動により、逆にどうやって短くしたらよいかという悲鳴が上がるようになった。

特に、デジタル庁の政策は、沿革も含めて茫漠としており、検討は困難を極めた。これから具体化していく部分も大きく残されていると思われる。

興味があるテーマだけでも目を通していただければ、現在のデジタル社会の本質的な問題の一端は理解できるのではないだろうか。

デジタル問題というと、ベテラン世代には身近に感じにくい課題かもしれない。しかしながら、デジタル社会のインフラは、一旦作り上げられれば、少なくとも今後数十年は私たちの生活の基本構造を規定し、そのプライバシー保護レベルを一定水準に強制する可能性が高い。

デジタル政策を検討すると、政府は、自らがデジタルプラットフォーマー代わりに情報の利活用のセンターとなることを指向しているのではないかと感じざるを得ない。

専門家に任せることなく、私たち市民がNOという意思を示すのも自己決定であれば、よく分からないから一任してしまうのも自己決定である。

一人一人の市民が主権者であり続けようとしているのか、民主主義社会の基盤を維持しようとしているのか、問われているのは私たち自身ではないだろうか。

ハンセン病で本来必要だった政策転換と新型コロナ対策

 新型コロナウイルス感染症法における位置づけについて、「2類か5類かはたいした問題ではない」という主張をときどきみかける。その多くは、医療専門家の意見を伝達する形である。
 本当にそうか。過去の公衆衛生政策の過ちをきちんとふりかえったものだろうか。
 1998年7月に提訴されたハンセン病国賠訴訟の答弁書p27で、国はこう言った。
「新法(戦後改正された「らい予防法」を指す。引用者注)の廃止については、前述の軽快退所制度の運用等その時々での医学的知見に照らした法の弾力的運用及び処遇改善策の実施により、事実上防止されていたこと」などにかんがみ、平成8年に行われたものである。
  まるで、感染力の乏しいハンセン病患者に対する隔離政策を定めるらい予防法を平成8年まで廃止しなかったことは合理的であり、厚生労働省(当時は厚生省)は、ちゃんと考えがあってそうしたのだ、という主張である。
  ご丁寧に、末尾には「ハンセン病療養所入所者の軽快退所状況」という表が付され、あたかも強制隔離政策は緩和され、自由に退所できたかのように見えるが、どの年を見ても軽快退所者数は入所者数のうちの最大2%未満でしかない。
 国の準備書面(1)p17には、こう書かれている。
「新法には、退所基準がないが、新法6条が『らいを伝染させるおそれのある患者』を対象としていることにかんがみ、これに該当しなくなったものは当然退所できるものと考えられており、(中略)新法が軽快退所あるいは入所の必要のなくなったものの退所を当然の前提としていたことは明らかである」
 あたかも、感染防止の必要性を超える人権制限をすることは最初からなかったし、最後までなかったのであり、生涯隔離をされたのは、入所者が自分で望んだからだ、といわんばかりである。
  国の準備書面(3)p18にはこう書かれている。
「遅くとも昭和47年には、厚生省は実質的に隔離政策を開放政策に転換し、隔離の根拠となっていた条文が現実に適用されることはなく、ただ、形式的に右の条文が残存していたことが明らかである。」
  これに対して、2001年5月11日付熊本地裁判決p447以下は、概要以下のように認定して国の主張を排斥した。
1 国は、少なくとも平成5年に至るまで、把握している患者(治癒している「回復者」がほぼ全部である)の90%程度を一貫して隔離し続けている。
2 国が療養所以外でハンセン病の治療が受けられる体制を敷かなかったため、再発で入院治療を受けようと思ったら療養所に戻らざるをえなかった。
3 自ら行ってきた強制隔離政策で多くの国民は強烈な伝染病であるとの過度の恐怖感を持つようになり、社会的な差別・偏見が増強されたが、特効薬により治し得る病気となった後もその差別・偏見が解消されなかった。
 その上で、厚生省は、昭和35年の時点で、「新法の改廃に向けた諸手続を進めることを含む隔離政策の抜本的な変換をする必要があった」とした(判決p462)。
 具体的には以下の通りである。
1 全ての入所者に対し、自由に退所できることを明らかにする相当な措置
2 療養所外での診療が受けがたい状況である理由は、「抗ハンセン病薬が保険診療で正規に使用できる医薬品に含まれていなかったことなどの制度的欠陥によるところが大きかったのであるから、厚生省としては、このような療養所外でのハンセン病医療を妨げる制度的欠陥を取り除くための相当な措置を執るべきえあった。」
3 「従前のハンセン病政策が、新法の存在ともあいまって、ハンセン病患者及びもと患者に対する差別・偏見の作出・助長に大きな役割を果たした」「その差別・偏見は、伝染のおそれのある患者を隔離するという政策を標榜し続ける以上、根本的には解消されないものであることにかんがみれば、厚生省としては、入所者を自由に退所させても公衆衛生上問題とならないことを社会一般に認識可能な形で明らかにするなど、社会内の差別・偏見を除去するための相当な措置を採るべきであった」
 2022年8月21日付毎日新聞には、「今は、症状が苦しいなど真の病気の怖さからではなく、とりあえず不安なので検査を受けたり救急車を呼んだりする人もいて、医療が混乱しています。」という医療専門家の話が出されている。
  感染症法で、「感染力や罹患した場合の重篤性などに基づく総合的な観点からみた危険性が高い感染症」という定義に該当する2類に指定したまま、弱毒化しても変更しないから、しかも、強毒性だった頃のコロナウイルス株の時と同じように感染者の全数把握をして、新聞・テレビ等のメディアで、当時とは桁が2つほど異なって激増した新規感染者数を連日報道されれば、相当割合の市民が不安に思うのは当然だろう。
 世論調査で、「コロナ対策を厳しくしてほしい」という回答の方が上回るのは、過去の政策に基づく恐怖心が解除されないまま、弱毒化に対応する政策転換の欠如という欠陥に基づくものであり、なぜ厳しいコロナ対策が必要ではないかという、EBPM(科学的根拠に基づく政策形成)とその説明が不可欠である。
 欧米で感染者の全数把握をしていないのは、弱毒化したからだ(中国では、接種済みのワクチンの効果が異なることから、弱毒化していても本当にまん延すると医療崩壊が起こるおそれがあるためゼロコロナ政策をやめられないとの指摘はあるが)。
 識者の中には、「強い規制ができる2類のままの方が、後で強毒性になったときに対応しやすい」という意見もあった。
 しかし、この意見は、強毒性を前提として2類に指定され、恐ろしい感染症であるとの法律による位置づけをあらためないことにより、市民の不安感は解消されないのではないか。濃厚接触者である医療者の排除による医療逼迫や、市民の不安感からの救急医療の逼迫をまねく現状を抜本的に改善できないだろう。
 「厳格な法律を、運用で柔軟にする」というのは聞こえはいいが、現在必要性の乏しい、市民への自由の制限に対する裁量を多めに確保しておくという、ハンセン病国賠訴訟の準備書面と同じような人権軽視の「悪い校則」の正当化のような雰囲気を感じる。
 欧米と比較すると、日本では感染者数、死亡者数とも桁が異なって推移している。少ない日本の方が、いつまでもコロナウイルスを強毒性という位置づけのままにすることに何の意味があるのだろうか。
 政府も、メディアも、いったいなんのために毎日毎日新規感染者数を克明に発表し続けているのか、結果として相当割合の市民の不安をあおる体制を維持し続けることに正義があるのか、そろそろ考え直すべきではないだろうか。

アメリカで濃厚接触者の隔離撤廃。日本は?

 2022年8月13日の日経新聞朝刊によると、アメリ疾病対策センターCDC)は、11日、濃厚接触者の隔離基準を撤廃した。5日間の隔離を求めていたワクチン未接種者も、隔離は不要になる。

 政策変更の理由は、ジョンズ・ホプキンス大学のデータによると、アメリカの新規感染者数に対する死者の割合が8月上旬に約0.4%まで低下したことにあると報じられている。

 濃厚接触者の同定と隔離は、市中感染が広汎に起こる遙か前の初期段階であれば効果が期待できる。しかし、濃厚接触者かどうかにかかわらず、市中に多数の無自覚感染者がいる場合、「キャリアである可能性が相当程度ある」という濃厚接触者を同定して隔離してみても、その効果は乏しくなっている。

 そのため、毒性が低くなった時点では、逆に多数の濃厚接触者の隔離の弊害(日本では病床逼迫等)の方が著しくなってしまう。

 やはり、毒性の程度に応じた、柔軟な政策変更が必要である。ウイルスは数ヶ月おきに変異していくのに、政策が一本槍ではちぐはぐになってしまう。

 入国規制も同じだ。

 日本に感染者がほとんどいない状態で、かつ、海外で流行している場合には合理的な公衆衛生政策といえる。しかし、すでに国内で大流行している場合に、入国制限をする公衆衛生上の合理性はあるのだろうか。海外では「鎖国」と揶揄され初めて久しい。ただのイジリではなく、「科学的根拠がないのでは?」という批判である。

 「以前、そうしたら内閣支持率が上がったから」という程度の理由で政策を継続していないだろうか。

 世界はEBPM(科学的根拠に基づく政策形成)に向かっている。民主主義国家は特にそうだ。民主主義国家として、理性的、科学的な政策が求められている。

 

病床逼迫の原因

 2022年8月4日の日経新聞朝刊では、病床逼迫の原因について、医療従事者のうち、濃厚接触者が相当増加し、欠勤を強いられるためであると報じている。福岡大学病院も2病棟が閉鎖された。
 その中でも、千葉大医学部付属病院は、毎日の抗原検査で陰性であれば、自宅待機せずに業務に従事できるとしたそうだ。また、これは2021年8月から厚生労働省が認めていた運用とされる。
 ネットで調べると、神奈川県のホームページに以下の記載がある。
「また、ハイリスク施設や保育所等の従事者が濃厚接触者となった場合、外部からの応援職員等の確保が困難な施設であって、一定の要件(※2)を満たす限りにおいて、待機期間中、毎日の検査による陰性確認によって、業務従事は可能と示されています。
(※2)代替が困難な従事者、職員であることや新型コロナウイルス感染症のワクチン追加接種済みであること、無症状であること等。詳細は必ず下記の当該国事務連絡を確認すること」
  これは、一般市民には自宅待機させつつも、いわば緊急避難的に解除する規定に読める。
 2021年8月当時のコロナの変異株より、オミクロン株の方が毒性は減少している。オミクロン株は、BA.5より前は、肺で増殖しづらく、当初の新型コロナの特徴である、肺炎を起こすという性質が微弱化しているとされていた。したがって、この緊急避難的規定も、コロナの毒性低下に従って、もっと緩やかに解釈されてしかるべきものと思われる。(なお、BA.5は、それ以前のオミクロン株と比較して、肺でもより増殖する性質があると報じられていたが、感染症の専門医によると、それほど心配はいらないだろうとのことであった。その後、アメリカではBA.5メインでも重症化率が低いまま推移しているデータに接した。)
 そもそも、濃厚接触者のルール全体が厳格に過ぎるように思われる。第6波の途中からは、日本でも感染者数が増えすぎて、事実上保健所による濃厚接触者の特定、カウントが不能な状態に陥ったことは有名な話だ。
 一般的に、ウイルスには、最初が強毒性でも、変異のごとに感染力を増すとともに、毒性が逓減していく場合が多いといわれている(スペイン風邪は、2波の方が強毒化したらしいので、何事も「原則として」「傾向がある」と言うだけで、絶対ではないが)。
 後ろ向きの濃厚接触者の調査を、保健所が行っている国は他にほとんどないのではないかとの指摘は、当初からあった。ただでさえ脆弱な保健所のパワーをさく必要があるのか、ウイルスが弱毒化し、かつ感染力が著しく大きくなった場合はなおさらだろう。
 濃厚接触者に対する制限を一般的にもっと軽減しないと、医療機関も緊急避難的規定を適用しづらいだろう。その意味では、毒性の低下及び感染力の増大にともなうもっと根本的な政策の見直しが必要だろう。感染力が強いと言うことは、濃厚接触者も多数生まれるので、行動制限があるとそもそも社会生活が成り立たなくなるおそれがある(医療従事者等のエッセンシャルワーカーに対する緊急避難的規定はそのために設けられていると思われる)。
 病床の逼迫は、最終的には救急病床の逼迫につながるおそれがあり、助かるはずの命が助からなくなるおそれが出てくる。
 まさに、エッセンシャルワーカーは、今こそ、緊急避難的規定で出勤して「よい」というべきだろう。コロナ状況下において、医療従事者は、まるで感染源かのような扱いを受け、社会から厳しい差別を受けている。市民が安全に生活するためには、過度に萎縮した医療提供体制ではなく、濃厚接触者でも条件を満たせば医療提供を受け入れた方がよい、という社会の側の十分な理解が必要になる。
  結局、感染力の増大の反面として、毒性が低下していることに対する市民の理解を促すような、専門家やメディアの情報発信が求められている。毎日毎日、感染者数が増えたことばかり報道され、不安に思う市民は多い。市民や社会の不安感が強固で、過剰な行動制限が避けられず、めぐりめぐって生命健康の危機を招くような無限ループは、日本では誰も変えられないのだろうか。
 今、何が伝えられるべきか。政府も市民もメディアも一緒に考える必要があるのではないか。

「ただの風邪になった」と伝わらない謎

 2022年8月3日の毎日新聞朝刊によると、日本感染症学会など4学会は、2日、症状が軽く、重症化リスクが低ければ、「薬や検査のために慌てて受診することはない」と呼びかけたという。他方、経済再生担当相は、お盆で帰省する人の新型コロナウイルス対策として、今月5日~18日に主要駅や空港など117カ所に臨時検査場を設置すると発表した。これは矛盾していないか。
 新型コロナの第7波で、医療現場は「既に崩壊」とも伝えられている。無症状の帰省客に検査を勧めたら、現場の崩壊はさらに拡大するおそれがある。
 コロナ対策を徹底するのか、緩めるのかについて、根本的な視点が欠けている。
 最も重要なのは、BA.5の毒性だ。感染した場合にどのくらいの確率で重症化し、生命の危険に至るのか。オミクロン株では0.03%と報道されてきたし、2日の4学会の会見でも、重症化する人は数千人に1人程度と説明され(3日の日経新聞朝刊)、一致している。これを前提とすると、新型コロナは、「ただの風邪」になったと言ってよい。このフレーズは、感染症の専門医に聞いた言葉でもあるが、医学的根拠がある。第1波の頃は、重症化率が海外の統計でインフルエンザの4倍とされ、警戒された。のどや鼻の症状がないまま肺炎が進展し急死する例もみられた。オミクロン株が流行した日本の第6波の始まり頃には、海外の統計で、オミクロン株の重症化率がインフルエンザの1.4倍までさがり、イギリスでは、途中で陽性者の行動制限さえ解き、「ただのインフルエンザ」扱いが始まった。これも一つの立派な見識である。
 日本で第6波が落ち着いてきた頃、重症化率が0.03%となった。これは、厚生労働省の統計でも、インフルエンザと変わらない水準である。また、第1波当時は、「新型肺炎ウイルス」といわれ、突如肺炎を起こし急死することが恐れられていたが、BA.5よりまえのオミクロン株は、肺でウイルスが増殖しにくくなる変異が起きているため、肺炎を起こしにくくなっていた。「単なる風邪」、厚生労働省の統計データをもっても「ただのインフルエンザ」なら、心配して行列を作りPCR検査を受ける必要はない。インフルエンザの場合、無症状でわざわざ検査を受ける人はいないし、そもそもそのような検査に医療資源、税金を投下する必要性には大いに疑問がある。さらには、無症状だったのに陽性と分かって慌てて医療機関をわずらわせても、誰も得をしない。
 欧米では、厳格なマスク着用を求めなくなって久しい。今年5月末に行ったオランダでは、すでに地下鉄でもバスでもマスク不要だったが、医療崩壊は起こっていなかった。
 いつまでも、毒性の低下を知らされていない国民は、もはや日本人だけになっていないか。2年前の「恐ろしい新型コロナ」という認識のまま、マスクからの出口戦略も、入国制限からの出口戦略も示せない日本は、海外から尊敬される国でいられるだろうか。スペインから帰国するために、今年6月に日本への乗り継ぎ便に搭乗する際に、1万円払って受けたPCR検査の結果を提出したが、他の国ではほとんど例のない厳格な国の要求に対し、「お気の毒に」という係員の神妙な表情は忘れられない。
  少なくとも、今の変異株の毒性の程度を伝え、「過剰な不安感」から市民を解放してほしい。専門家・メディアの役割が今ほど重要なときはない。新規感染者の数の報道ばかりでなく、それに負けないくらい、「ただの風邪」になったことを他の国と同じように伝えてほしい。
 もちろん政府も、EBPM(科学的根拠に基づく政策形成)を実践し、不要不急の検査場設置などやめることだ。今ほど、専門家に従った政策転換が求められるときはない。
 変わるべき時に変われない、頑迷な、あるいは信念もなくただずるずると前例を踏襲するだけの保守主義は、日本人を幸せにしないだろう。

 こういうことを書くと、反射的にデマととる人がたくさん出てくるデジタル社会ではある。想定される反論1は、「オミクロンを放置したらたくさんの人が死ぬのではないか」。しかし、今2類なので、陽性がわかると病院では隔離の対象となり、施設によっては、その分救急患者のためのベッドが減る場合もあり得る。コロナ重症者が全国で464名(6月2日現在)なのに救急搬送が困難となっているのは、コロナ以外での入院患者の陽性判明による隔離措置が災いとなっていることが予想される。陽性でも今ほどの特別扱いをしないようにする方が、救急患者の受け入れ拡大による救命につながるだろう。
 反論2は、「オミクロンは絶対安全とでも言うのか」。0.03%なので、基礎疾患がある方、高齢者等は死亡することもある。それは誰も否定していないし私も否定しない。逆に、あまりにいつものことで報道されないものの、普通の年でも、高齢者等は、ただのインフルエンザでかなりたくさんの方が亡くなっている。高齢者における死亡原因の上位に肺炎があり(65歳以上なら4位、80歳以上ならなんと3位である)、これにはインフルエンザをこじらせたもの(合併症としての肺炎)も多い。それと比較すると安全だから、特別扱いをするのはバランスを失するという意味である。
 反論3は、「マスクは無意味とでも言うのか」。そんなことはない。ただ、飛沫感染ではなく空気感染(エアロゾル感染)が主体なので、野外ではほとんどの場合意味がなく、閉鎖空間かつ20分以上継続して2メートル以内にずっと誰かがいる、かつ換気不十分という状況下ではした方がよい(が、ただの風邪だからそれも不要とする海外の対策は合理的である)。私は、不特定多数がいる屋内・公共交通機関ではマスクをし、手洗いも飛沫感染対策にすぎないが行っている。同調圧力に負け、人混みのある市街地では、野外でもつけることはある(残念だが)。何もかも無駄だと言うつもりはない。
  反論4は、「あなたは医者じゃないではないか」。それはもちろんそうだ。ただ、公衆衛生政策では、過去に、感染のおそれを過剰に見積もり、適切な限度を超えた過剰な人権制限(人権侵害)が繰り返されてきた。ハンセン病国賠訴訟では、感染のおそれが低いのに人生を奪われた壮絶な人権侵害が暴かれた。判決は、感染予防に必要な最小限度の人権制限しか許されないことを前提として、国の責任を認めた。「2年前のウイルスが強毒性だったから」という理由で、いつまでも2類指定を解くことなく、ただの風邪に人手や貴重な税金などの資源を過剰に投下する国の政策は誤っている。そう訴えるのも、医療の専門家ではないものの、人権擁護を法律でもとめられている法律の専門家の責務ではないだろうか。
  反論5は、「もうコロナ対策は不要と言いたいのか」。リスクがゼロではないが、対策は緩和すべきであり、早く日常に近づけた方がよい。ただ、新たな変異株の毒性を、慎重に監視し続ける必要はある。将来強毒化するおそれはゼロではない。あくまで、今流行している変異株の毒性にあわせた、機動的な政策対応が求められている。その意味では「法改正しないと類の指定が変えられない」などと言った建付けであってはならないのは当然だ。数ヶ月おきにも生じうる変異株への対応を全部国会で決めるのでは遅い。毒性の程度を常に国民に公開して十分説明を行うこと。EBPMの実践と、市民への説明責任を果たすこと、いま政府に求められていることはそれをおいて他にない。

スマホとマイナカード

  「スマホとマイナカード」という表題で、しんぶん赤旗の5月5日、6日の朝刊に記者のインタビュー記事が掲載されました。

 インタビュー部分のみ、掲載します。


-プライバシーの侵害が心配です。
 いま、世界中でスマホとパソコンが利用され、GAFA(ガーファ=グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)と呼ばれるプラットフォーマーが、世界中の人々のインターネットでの個人情報を利活用して、利益を上げています。ある人が見た動画やサイトの種類、検索した言葉などすべて記録して、それに合わせて商品購入を勧めてきます。例えば病名を検索すると、それに合わせた薬の広告が表示されます。家族以上に正確に好みや思想、弱点を把握し、丸裸にされている状態です。
 このような情報の統合をプロファイリングと呼び、これを拒否して、個人のプライバシーを守る手段が必要だというのがEU(欧州連合)のルールです。プロファイングの手段は、クッキーなど、インターネットサイトのアクセスの目印になる識別符号です。アメリカでもEUでも、クッキーは拒否できます。ところが日本では、利用目的を公開していれば、本人が知らなくても原則としてクッキーを無断で使用できます。
 実は総務省では、今年の電気通信事業法改正で、クッキーに対して事前同意を求める制度を導入しようとしたようですが、通信事業者の反対で葬り去られました。
-  マイナンバーの現状はどうですか。
 マイナンバーは、本人ですら、勝手に他人に知らせることを禁止された番号で、その利用範囲の限定の厳格さによって、プライバシーを保護する仕組みです。それでも、政令により、税や社会保障という当初の目的以外の行政事務に利用範囲が拡大しています。しかも、マイナンバーカードで使用される識別符号は、民間にも開放され、明確な利用制限はありません。歯止めのない利活用の推進は、プライバシーへの重大な脅威です。
 また、カード取得者の顔認証データは、現在自治体が管理していますが、国が管理する方向に向かっています。
 顔認証は、指紋の1000倍の識別性があるので、健康保険証や運転免許証と連動させて国が事実上強制的に全国民の情報を収集管理することは、民主主義国家ではありえない野蛮なプライバシー侵害です。
- この先どんな社会が待ち受けていますか。
 極端な例として、中国が挙げられます。中国国内には顔認証カメラが6億台設置され、通行する市民の行動を常時監視しています。クレジットカードなしで顔だけで商品が購入できる、「便利」な社会です。
 他方、赤信号を無視した歩行者は瞬時に個人が特定され、周辺ビルの大型スクリーンに顔と名前が映し出され、罰金を科されます。政府を批判することは犯罪とされているので、カメラで撮影され逮捕された例もありました。「天網」というこの仕組みは毎秒30億人分を照合可能だといいます。
 日本でも、警察が法律の根拠もなく犯罪捜査に利用しており、JR東日本も公共空間で顔認証カメラを使用しています。法律によるルールのない顔認証データの収集・利用は原則として禁止すべきなので、日弁連はこれらに反対しています。
- 弾圧につながる可能性があるのですか。
  中国のような顔認証による監視のほかにも問題があります。
 スマホでは、GPS(全地球測位システム)をオンにしている人が多く、これでは発信機と同じ状態で、移動履歴が筒抜けです。
 戦争反対を訴えデモ行進に参加している人は、同じ時間・場所・速度で移動している集団として特定できます。
 イスラエルの治安当局は、コロナの接触確認アプリを利用してデモ隊の参加者を特定し警告を発しています。
 日本では、2017年の最高裁判決で、法律なしにGPSの位置情報を収集することは違法とされていますが、技術的な設計が誤れば危険です。
 今の政府は、民主主義のルールにのっとり意思表示する人を危険人物扱いしています。辺野古の基地反対運動への監視が典型です。警察によるマイナンバー利用に対しては、個人情報保護委員会の監督が及びません。「市民監視」に対するプライバシー保護のルールがないので、問題です。
 日本の個人情報保護法はクッキーの事前同意も一律には求めておらず、世界の潮流に遅れています。スマホ時代のプライバシー保護にはマッチしておらず、GDPR(EU一般データ保護規則)の水準まで引き上げる必要があります。
- 今度の運動の展望は。
 データの利活用一辺倒の政府の設計図は危険です。
 また、理想のデジタル社会については、私たちも考えるべきです。コロナの自宅待機者に、同意した人に対してウェアラブル端末を貸与して、健康状態により自動で救急通報するシステムが考えられます。救急搬送先も、救急隊員が電話で何時間も探すというのは恐ろしく時代遅れで、一刻も早くデジタル化し、21世紀の先進国の水準にすべきです。
- 日本国憲法との関係は。
 そもそも絶対的権力は必ず腐敗し、国民を脅かします。「悪いことをしていないなら気にする必要がない」というのは、ナチスの言い方です。EUがプライバシー保護に熱心なのは、ナチスに対する深い反省と、それを忘れない不断の努力です。
 ロシアや中国のように、政府批判の抑圧や監視は弾圧や戦争へ向かう道です。先人の苦労や犠牲の上に勝ち取られた権利章典としての憲法の価値を今こそ再確認する必要があります。
 自由で快適な社会を将来に引き継ぐために、主権者としてNOと言い続けましょう。