個人でのパブリックコメント提出

 本日、個人としてパブリックコメントを提出しました。
 施行令案、運用基準案、内閣府令案に対するもので、内容は同じものです(ローマ数字や丸数字がうまく反映されていませんが・・・)。

「特定秘密の指定及びその解除並びに適性評価の実施に関し統一的な運用を図るための基準(仮称)(案)」に対する意見
1 個人
2 武藤糾明
3 福岡市西区姪の浜4−8−2−3F
4 TEL 092−894−1781
5、6 複数項目に及ぶため、以下、適宜項目名を指摘しながら意見を述べる。
第1 意見の概要
  現状の特定秘密保護法違憲と考えられるので、いったん廃止すべきである。
   そもそも法律策定の必要性をも含めた国民的議論を経ないまま、この法律を施行するべきではない。この法律の成立及び施行は、主権者国民が自分の頭で考えて国政の重要事項を決定するという民主主義の手続きを踏みにじり、行政権が独走して国民の権利を制限することに成功した大きな第一歩とされかねない。このまま法律が施行されることは、今後も議会制民主主義の過程を省略して、行政権のみの決定である閣議決定などをもとにこの国の姿を次々に変えていくことに道を開きかねない。

第2 意見及び理由
 1 民主主義の過程(主権者である国民が、自由に政治に対する意思を形成すること)をゆがめるための合理的根拠がないこと
私は、昨年の特定秘密保護法の法律案の概要に対するパブリックコメントにおいて、国家秘密の漏えいという立法目的が仮に正しいとしても、刑罰による威嚇を元に国民の知る権利を大きく制限し、運用次第では大本営発表を可能とする法律を本当に今定める必要性があるのかというそもそも論において、その根拠がないことを指摘した。
2013年11月14日の森国務大臣の答弁では、「過去15年間で、公務員による主要な情報漏えい事件は5件。中国潜水艦の動向にかかる情報漏えい事件については、本法案の特定秘密に該当する。それ以外の事件は、特定秘密には該当しない。」とされている。
 とすれば、過去15年でわずか1件の情報漏えいのために、これほどまで大がかりに記者の取材や政府に対する市民の批判的活動(これらは、独裁国家であれば弾圧の対象となるが、欧米と同じ民主主義国家であれば、民主主義を守る活動として、公的価値を認められ、プラス評価が与えられるはずである)を制限し、容易に弾圧の手段として濫用しうる法律を策定する必要性に疑問がある。
 新聞報道によると、法律の可決後に情報公開によって明らかにされた文書によれば、内閣法制局も、当初は立法の必要性に疑問を呈していたことが明らかにされている。
 国家秘密の保護が必要だとしても、具体的な漏えい事故の冷静な原因分析と対策の立案がなく、突然過剰な人権制約立法が採用され、強制されることは許されない。
2 「特定秘密」に指定できる情報の範囲が広範過ぎること(運用基準案?)
昨年のパブリックコメントにおいて、本件法案で秘密指定の対象となる「特定秘密」の範囲が広範かつ不明確に過ぎることを指摘した。これは、運用基準案の策定によっても何ら解消されていない。
別表第1号(防衛に関する事項)では、陸上自衛隊情報保全隊による国民監視活動のように、3権の一翼を担う司法判断(仙台地判平24.3.26)によって違法とされている活動すら隠蔽されるおそれがある。このようなことがまかり通ったら、行政権は、司法権より上の唯一絶対権力となってしまいかねない。
また、米軍の運用が明記されているが、法律による委任の範囲を超えているので、なぜ主権者への説明抜きに拡張されているのか、またその説明をなぜ主権者に対してしないまま拡張してよいと考えたのかが不明である。
「電波情報、画像情報その他情報収集手段を用いて収集した情報」は無限定であり、昨年のパブリックコメントでも指摘したように、「スパイ対策」や「テロ対策」という名目での日本国内の既存の諜報機関公安警察など)や、今後創設され、強大化されていく諜報機関(いわゆる日本版NSCないしその下におかれる新たな諜報機関)が実施したり、これから実施していく活動の中で、違法となる活動(適正手続きを経ない盗聴や、法律で許されていない情報収集活動、例えばウェブ上の通信履歴などの収集)を隠蔽する懸念がある。この問題は、別表第3号、4号の問題として指摘していたが、防衛秘密においても同様のものが公然と書かれているから、自衛隊による国民監視をさらに強力に推し進めたいという動機があるのではないかと疑われる。
第2号(外交に関する事項)でも、「電波情報、画像情報その他情報収集手段を用いて収集した情報」の定めがある。同様に問題である。
第3号、第4号でも「電波情報、画像情報その他情報収集手段を用いて収集した情報」の定めがある。何らの歯止めもないため、問題である。
3 適性評価は有効性がなく、不必要な人権侵害である(運用基準案?)
人的管理は、情報を管理する人の側に注目して、人の監視を強化することによって情報漏えいを防ごうとするものである。
昨年のパブリックコメントでも記載したが、技術的漏えい対策を検討している「情報保全システムに関する有識者会議」の配付資料によると、2006年2月から2008年5月にかけて、少なくとも10回、私有の記録媒体に保存された秘密が、ファイル交換ファイルの使用に伴い、インターネット上に流出した事件が繰り返されており、「国際テロ対策にかかるデータのインターネット上への掲出事例」も、同じ原因と推測される。
職員の身辺調査を行うという発想は、このようなデジタル社会における、情報の安全保障の観点からはまったく時代錯誤かつピントのずれたものであるから、単に職員の思想調査をしたいというそれ自体を目的としているのではないかと疑われる。
「テロ活動」の法律上の定義をみると、単なる国の政策に対する批判を行う市民としての表現行為を行った過去を暴くことすら運用上可能にしているように見える。
また、例えば、過労等による心療内科の受診歴等も、調査の対象となった公務員等は申告することが事実上義務づけられ、さらには医療機関への調査すらなされる可能性がある。しかし、このような制度が採用されたら、過労等によって一時的にうつ病などを発症した公務員等が、適性評価における不利益処遇を恐れて精神科・心療内科への受診を自己抑制する懸念がある。その先に予想されるものは、公務員等の労働環境の悪化であり、適切な医療を受けられないままの退職者の増加や、最悪の場合には過労自殺者が出現することも懸念される。
医療一般においてもそうであるが、とりわけ精神科医療においては、患者と医師との信頼関係がなければ治療効果が期待できないのであり、いざ受診しても、主治医が自分の勤務先に自分のことを通報する可能性があるという中での信頼関係の樹立が可能なのか、そのような制度に巻き込まれたままで精神科医療がなりたちうるのか、疑問が大きい。
行政機関職員等の同意を得た上で、第三者に対する照会等により調査を行うこととしているが、不同意について、あたかもこれを証拠化するかのような不同意書を作成していたり、不同意の事実を懲戒等に利用できるような設計になっていたりと、不利益処分を課されうる制度化における、真に自由な意思に基づく同意が成り立つと考えることは困難である。事実上の強制になることは必至である。
仮に適性評価制度が運用されるのであれば、不同意という選択をとったとしても絶対に不利益に取り扱われないことが法律の明文で保障されていなければならないというべきである。
4 第三者機関について(運用基準案?、内閣府令)
本件運用基準案に基づく第三者機関によって、過剰な人権侵害が発生しないとか、違法な事実が特定秘密に指定されない等の効果が生じることは全く期待できない。
そもそも、特定秘密保護法においては、情報公開と国家秘密の保護において、常に衝突があるという前提事実にたっていない。そのため、民主主義国家においては当然に重要であると共通認識が形成されている情報公開を損なわないための制度的保障が皆無である。
 例えば、主権者国民が自分の頭で自分たちの社会や国家に対する意思決定をするためには、税金で収集された国家情報は、可能な限り直ちに国民に提供されるべきであるという原則が法律で明記されておく必要がある。その上で、?主権者に対して、税金で収集された国家情報を秘匿しておくという事態は、あくまでも例外に過ぎないこと、?主権者国民のために、あえて秘匿されておく必要がないものは秘密に指定されてはならないこと、?必要もないものを秘密と指定した場合には担当者が懲戒の対象になること、特に、違法秘密や結果として国民の判断を欺く結果となる情報隠蔽行為に対しては、特に行政罰や刑罰をもって抑止すること、?故意に、あるいは誤ってなされた秘密指定に対しては、担当者が内部告発は積極的によいものとして推奨されることの明文規定(オバマ大統領令13526号1.8条)などの内部通報を促進するシステムなどの整備が不可欠である。
 ツワネ原則は、「国民の情報アクセス権を制限する正当性の証明が政府の責務であることの明示」を法律で条文化することを求めている。その趣旨は、上記の通りである。
 特定秘密保護法では、情報公開の要請は全面的に無視して、秘密保護の要請一本槍になってしまっているので、明らかに偏った異常な立法形式となっている。民主主義国家においては、まず情報の公開こそが原則であり、情報の非公開はあくまでも例外的事象に過ぎないこと、その正当性については、政府が証明責任を負うことを特定秘密保護法の明文とすべきである。このような根本理念が存在しない欠陥法としての特定秘密保護法が、それよりも下位規範である施行令や運用基準等によってすばらしくよいものとなることは期待できない。
 内閣府令や運用基準案等においてさまざまな「第三者機関らしきもの」が定められているが、それらの根源が現行の特定秘密保護法にすぎないことを考えると、「法令遵守」には自ずから当該法律の限界に伴う限界があるというべきである。
 結論として、特定秘密保護法の明文に、情報公開の原則と国家秘密保護の調整・均衡を図る理念が明記され、そのための重要な制度として第三者機関を位置づけるという形式でなければ、いかなる機関といえど、その実効性は期待できない。
その他、運用基準案等によれば、独立公文書管理監には、全ての情報にアクセスできるという権限もなく、秘密の解除権限もなく、内部通報者を保護する制度もほとんど存在しない。実効性が期待できないことは明らかである。
5 主権者を管理客体とせず、主体と捉えるべき思想の欠如
特定秘密保護法の最も驚くべき問題点は、記者、市民活動をするものなどの主権者国民を、処罰の対象として、管理客体、監視客体におくことのみに専念しており、むしろ国家による違法・不当な秘密指定及びこれに関連する情報隠蔽を少なくするための主体的関与の道を完全に閉ざしていることである。
 ツワネ原則は、「国民が秘密解除を請求するための明確な手続き規定」「一般国民が秘密情報を求めたり入手したりしたという事実を理由にした刑事訴追をされないことを保証する規定」をもうけるよう求めている。
 国民を主権者と定める民主主義国家であれば、仮に時間がかかるとしても、国民が自分で物事を決められるように制度で保証すること、判断が難しい場合には政府がきちんと情報を公開して十分な説明をし、国民が自分たちで判断できる前提状況を作り出すことが政府の責務であることを理解できると思われる。
 そして、主権者国民の不利益となる、政府による故意か過失かは問わない過剰な情報の非公開・隠蔽がなされないために、主権者が積極的に秘密指定に対して異議申立を行う手続きを保障されるべきである。しかし、そのような手続きは皆無である。
 主権者から選出された国会議員を構成とする、国会に設置される機関においても、全ての情報にアクセスできるという権限もなく、秘密の解除権限もなく、内部通報者を保護する制度もほとんど存在しないため実効性が期待できないことは同様である。
 他方で、昨年のパブリックコメントでも指摘したように、国民に対する罰則が過剰である。
 今回のパブリックコメントでは、罰則は意見提出の対象となっていないが、そもそも、国家の情報が誰のものか、どのような場合に秘密は指定することが正当化されうるのか、という情報主権に関して、それを主権者であるはずの国民から、政府・行政権が奪い返すことが企図されているようにしか見えない。
 国際機関など、民主主義の価値観を共有しているものと信じられてきた団体からの特定秘密保護法に対する批判は絶えない。その問題の大きさを受け止めない場合には、社会全体が民主主義的なものとは異なるものに堂々と変質していくおそれが大きい。
以上